「Q. 強制収容所に送られるユダヤ人に対する一般的なドイツ市民の態度は?」「A. "良かった。ユダヤ人もとうとう働かざるをえなくなって、重労働をしているのね"」—— 第二次世界大戦中ドイツ市民だった女性によるAMA。ヒトラーユーゲントの活動内容、ナチスドイツの洗脳とプロパガンダ、当時の市民生活を語る貴重な体験談。

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photo credit: Floyd Brown via photopin cc

元スレ:IamA 86 year old who lived in Germany during World War II. AMA!(2014/12/01)

(OP)
私は第二次世界大戦当時ドイツに住んでいた86歳よ。AMA(なんでも聞いて)!

私の名前はVera Palmieri。第二次世界大戦時はドイツに住んでいた。
今私は86歳で、ジャザサイズ(ダンスフィットネスプログラム)と新しいテクノロジーの学習を楽しんでいる場所、アメリカに住んでいる。

最近『Nothing Is As Bad As The Second World War』という私の体験記が出版されたの。ここで購入できるわ。
(タイピングしてるのは私のコンピューター・ヘルパーであるスコットよ)

証明:
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Q. ドイツのコブレンツからこんにちは!どこに住んでいたんですか?

A. ハイ!かつてはフランクフルトに住んでいたわ。だからあなたのところから遠くないわね。今はアメリカのアリゾナ州フェニックスに住んでいるの。

Q. 開戦初日のことを思い出せますか?

A. えぇ、とても。私は9歳だった。父は私的な飛行クラブのメンバーで、戦争が始まる1週間前に、飛行技術のせいでナチスの親衛隊に連れて行かれたの。父は親衛隊員に家族に別れを言うために少しだけ時間をもらえるか頼んだ。親衛隊は彼らが玄関口に立っている間、父に私を起こして家を去るために1分だけ時間を与えた。何週間も父からは連絡がなかった。その間に開戦したの。

Q. 他の国と戦争を始めるというドイツの決定をどう感じましたか?

A. 私たちは学校で、ドイツの領土を取り戻すために戦争を始めると教わったわ。例えばポーランドみたいな。ヒトラーのプロパガンダは国民みんなに、ポーランドの半分はかつてドイツ領だったと教えた。だから戦争は自分たちのものを取り戻すものだと信じられていた。ヨーゼフ・ゲッベルス、国民啓蒙・宣伝大臣は何度もラジオに出演した。授業中、彼がラジオ番組に出演するときは毎回、それを聞くことを強制されていたの。
それに、私たちは学校でプロパガンダ映画『Jud Suess』を見なければいけなかった。劇中にはユダヤ人の男が若い女性をレイプするシーンがあった。映画のセックスシーンは当時希有で、子どもにはそれを見せようとすらしなかったのに、その映画は全てを見せた。おかしなことに、私たち子どもはみんな、くすくす笑って興味深くそのセックスシーンを見ていたわ。それまでそんなもの見たことがなかったから。私たちはヒトラーが何を描写しようとしているのか(ユダヤ人たちをネガティブに見せること)を理解していなかった。 代わりに単にそれをレイプシーンとして見ていたの。

パウル・ヨーゼフ・ゲッベルスPaul Joseph Goebbels1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツ政治家国家社会主義ドイツ労働者党第3代宣伝全国指導者、初代国民啓蒙・宣伝大臣。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、アドルフ・ヒトラーの政権掌握とナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕を発揮した。
Wikipediaより

Q. プロパガンダを信じていましたか?それともほとんどが非現実的で間違っていると気づいていた?

A. 私はほんの子どもだった。だから教えられることはなんでも信じていた。例えば、母は私によく「嘘をついたら死後に墓から手が出てくる」と言っていたの。墓所に住む親戚を訪ねる時は毎回、墓から突き出た手を探していたわ。自分がどれだけ母を信じていたかを今思うと笑ってしまうの!でもそれは当時の私がどれほど何でも信じていたかを表すものね。それに私がどれだけ、そしてなぜヒトラーのプロパガンダを信じていたかとまったく同じなの。
それだけでなく、私たちは洗脳されてもいた。説明は難しいのだけど、私たちは考えることを許されていなかった。信じられるか、信じられないかの問題ではなく——教えられたことが単純に真実だと思っていた。そこに疑問はなかった。

Q. 当時の食事は現在のものと比べてどうでした?

A. 戦時中、私たちに食料はなかった……よくパンやバターに換えられる配給券をもらったわ。それに公園に行って食べられる草を摘んでいたの。母がサラダを作れるように。私たちが手に入れていた食料の大部分は、電車が近くに止まるという知らせを聞いたときに、子どもたち全員(私を含めて)が走っていって電車から盗んだものよ。

Q. 戦時中主に食べていたものは?

A. パン。でも多くはなかった。一度母が私をパンの配給を取りに店に行かせた。でも帰り道に私はそれをちぎって食べ、最終的に全てのパンを食べてしまった。家に戻った時、私がパンを全部食べてしまったせいで母が悲嘆にくれたのがわかった。でも母は私を罰したりはしなかった。私がお腹を空かせていたことを知っていたから。

Q. 政府がパン屋を経営していたの?

A. ドイツの一般市民によって経営されていたわ。でもパン屋は彼らがユダヤ人を雇っていないことを証明する必要があった。

Q. 当時の生活で一番胸を刺す思い出は何ですか? 

A. とてもたくさんの瞬間がある……特に防空壕で過ごした全ての時間。私たちが攻撃の間隠れていたワインセラーを爆弾に破壊されたことが一度あった。破壊の前、私はみんなに近い階段の側に立っていた。でも防空壕の責任者が、反対側にいた母の近くに立つように私に言った。私が母のもとへ移動した直後に爆弾が直撃して、私に命令した男性は死に、全員が負傷したか死んでしまった。無傷で生き残ったたった2人の人間が私と母だった。 

Q. 感情的・精神的にどうやって生きのびたんですか?乗り越えるのに役立ったなにかがありましたか?(例:歌、芸術、縫い物など)

A. 当時私は子どもだった。幼かったから生きたいと思っていたの。母は戦時中に自殺しようとして、私に一緒に死にたいかとさえ尋ねたわ。私は死にたくないと答えたのに、母は階段を上がってガスの栓を開けた。私が階下で激しく泣いていると、女性が近づいてきて、どうしたのか尋ねられた。私は母が自殺をしようとしていることを伝え、彼女は助けを得ることができた。 だから母は助かった。

 └・ワォ、その後お母さんは無事だったんですか?

  └(OP) 結局は「Yes」ね。でも私は彼女を恐れていて、当時は眠ることすら難しかった。母が私を殺して自殺しようとするかもしれなかったから。

Q. あなたや周りの人たちはドイツが勝利する可能性がどれぐらいだと見積もっていましたか?勝利を確信していた?それは時間が経つにつれてどう変化しましたか?

A. 一度も変化しなかった。平均的なドイツ市民は勝利は間近だと信じていたわ。ヒトラーの「秘密兵器」—— 原子爆弾 —— についての情報がリークされ、世間に広まっていた。私たちは彼が戦争を終わらせ、勝利するためにそれを使うだろうと信じていた。自分たちが敗戦したとわかった時は衝撃だった。最前線から戻ったドイツ兵士たちが、ドイツが負けているという情報を教えてくれていた。彼らは戦後戻れるのはどれだけ少ない兵士かとよく言っていた。ドイツが本当に敗戦に向かっていることがわかって、私は怯えたわ。

Q. 戦時中も学校に行っていたと思いますが、戦争前と比べてどうでした?

A. 戦時中、学校は多くなかった。空襲が絶えず続いて、その結果私たちはたくさんの日々を防空壕で過ごした。もし空襲が12時までに止んだら、子どもたちは通常の時間に学校へ行くことになっていた。でももし止んだのが12時01分なら、2時間遅れで登校していた。私たちは子どもだったから、いつもそれを望んでいたの。そうしたらその分眠れるから。 

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Q. たくさんの情報に感謝します。戦争中でも普通の感覚があったことは素晴らしいですね。

A. 信じがたいことだけど、私たちは何が起こっているかあまり知らなかったの。ヒトラーの恋人がエヴァ・ブラウンだということすら知らなかった。私たちは彼らが一緒に写っているたくさんの写真を目にした。でも誰も知らなかったの。

Q. 学校にユダヤ人の友だちはいましたか?もしそうなら彼らにとって学校はどんなものでした?

A. ユダヤ人の友だちがいた場合、彼らがユダヤ人だったと知るのは開戦直後だった。ユダヤ人は学校から姿を消したから。彼らはもはや学校へ行くことが許されていなかった。誰かが特定の子どもたちがどこへ行ったのかと尋ね、他の人がこう答えることがよくあった。「彼はユダヤ人だった。今は強制収容所にいる」あるいは、他の人たちはゲットーへと移された。

ゲットー(ghetto)は、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区である。第二次世界大戦時、東欧諸国に侵攻したナチス・ドイツがユダヤ人絶滅を策して設けた強制収容所もこう呼ばれる。
Wikipediaより 

Q. あなたの地区から姿を消した人がまた戻ってくることはありましたか?連行されたユダヤ人の友だちとか?

A. 私たちは戦時中ユダヤ人に話しかけることを許されてはいなかった。でも数人がいなくなった後、おそらく数週間後に戻ってくるのを見たわ。彼らは打ちのめされるか飢えていた。もし私たちに話しかけたら殺されると言われていたでしょうね。私たちは彼らがなにか悪いことをしたから連行されて叩かれたのだと思っていた。ただユダヤ人だからという理由ではなくて。

Q. ユダヤ人を探すために家を捜索されたことがありますか?

A. いいえ。うちの近所ではなかったわ。ユダヤ人は初期に強制収容所に連れて行かれて、単純にすでにいなくなっていたから。 

Q. 個人的にユダヤ人に対して悪意を持ったことはありましたか?

A. ユダヤ人がゲットーにいたとき、私たちのクラスは、ユダヤ人の側を通り過ぎ、彼らがどれだけ不潔で吐き気を催す姿をしているか見るよう強制された。私たちはなぜユダヤ人があんなに小さく、泥まみれなのか理解できなかった。彼らが食料も、水も、体を清潔にするためのものも何も持っていないとは一度も思わなかった。誰もそれについて尋ねなかった。——洗脳にすでに支配されていたの。だから私たちの頭には、論理的な質問をする考えさえ浮かびもしなかった。

Q. ご両親はあなたにユダヤ人を人間以下のように扱うことを正当化する言葉を言いましたか?
 
A. 信じがたいことでしょうけど、一般的なドイツ市民はユダヤ人に何が起こっているか本当に知らなかった。私たちが知っていたのは、ユダヤ人が家から連行された後、畑で働かせられているということだけ。 
強制収容所のフェンスにはこう書かれていた。「Arbeit macht frei」——「働けば自由になる」
私たちは戦争が終わるまでユダヤ人たちに何が起きていたのか気づかなかった。彼らが単に労働しているのだと思っていた。でも後に強制収容所のドアを開かれたとき、彼らが飢え、殺害されていたことに気づいた。 とても罪悪感を感じたし、今でさえユダヤ人に会う時は、彼らの身に起きたことで謝罪をせざるを得ない気持ちになるわ。たぶん私にできることは何もなかったけれど、それでも未だに罪悪感を感じているの。

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photo credit: Zoriah via photopin cc

Q. >彼らが単に労働しているのだと思っていた。
えぇと、ドイツ市民は間違いなくユダヤ人が強制労働させられていることは知っていたんですね?強制収容所に送られるユダヤ人に対する一般的なドイツ市民の態度はどんなものでした?第一次世界大戦のせいでユダヤ人はそれに値すると思われていたんですか?それとももっと気詰まりな真実がありますか?


A. 私たちはユダヤ人は一度も真の労働をしていないように感じていた。——彼らは財産と店を持っていただけ。だから一般的な感情は、「良かった —— ユダヤ人もとうとう働かざるをえなくなって、重労働をしているのね」だった。

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Q. ヒトラーユーゲントについてなにか教えてもらえますか?

A. 私はヒトラーユーゲントに所属していた。——強制だったの。一度ミーティングに行けなかったことがあった。バレエでとても忙しかったものだから。その結果、母はヒトラーユーゲントの10歳の「リーダー」に弁明の手紙を書かなければいけなくなったわ。グループではよく歌っていた。とても良い歌をたくさん学んだの。私が特に一番好きだった歌のメインはこんな歌詞だった。「今日我々はドイツを所有する。明日には全世界を」とてもキャッチーな歌で、かつては大好きだった……でもその歌詞が意味するものを本当に理解してはいなかった。メロディーのことだけ考えて、なんて素敵なのかしらと思っていただけ。ランニングやエクササイズやスポーツもたくさんやっていた。だからヒトラーユーゲントに行くのを本当に楽しんでいたの。私たちは性別で分けられていた。ベルリンにヒトラーの演説を見に行くとき以外は。そのときだけ1つのグループになったの。

ヒトラーユーゲントHitlerjugendHitler Youth)は、1926年に設けられたドイツナチス党内の青少年組織に端を発した学校外の放課後における地域の党青少年教化組織で、1936年の法律によって国家の唯一の青少年団体(10歳から18歳の青少年全員の加入が義務づけられた)となった。「ヒトラー青少年団」とも訳される。略号はHJ
Wikipediaより

Q. ヒトラーに対する一般市民の総意は?ドイツ市民は本当に彼が偉大な指導者だと信じていた?

A. 私はヒトラーが偉大な指導者だと本当に思っていた。ドイツ人は彼を新たな救世主と呼んでいたわ。私たちは決してヒトラーに疑問を抱かなかった。彼に反対する政治的指導者たちを批判的に見ていただけだった。 最終的に首を切られた人たちを。ヒトラーの悪口を言うのはたいてい論理的で頭の良い人たちだった。でもそのことに当時私たちは気づいていなかった。

Q. 連合国を恐れていた?それとも彼らが勝つことを望んでいた?

A. 連合国を恐れていたわ。子どもだったから。彼らが悪者だと信じていたの。
だけど水晶の夜事件を経験した時、私の考えは変わりはじめた。酷いものだった。ユダヤ人が所有する店は全て破壊された。通りの全てが。親衛隊は誰も何も取れないように見張りに立っていた。その後、うちの母は親衛隊の男たちに言った。「あなたたちが破壊した商品を作ったのはドイツ人よ……ユダヤ人は単に店を所有していただけ。あなたたちはドイツのものを破壊した!」親衛隊の男たちは母に黙れと言った。さもなければ連行すると。 そのとき私は何かが間違っていると気づきはじめた。

水晶の夜事件(すいしょうのよるじけん、ドイツ語Kristallnacht(クリスタル・ナハト)) とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。ナチ政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。
Wikipediaより 

Q. 当時ロシアで何が起こっているかドイツ市民は気づいていましたか?

A. いいえ。私たちは何も知らなかった。私は未だに確かではないの……。私たちはプロパガンダを通した情報しか与えられていなかったし、たくさんの洗脳があった。私たちは他の国々を幸せにしていると教えられていたわ。ドイツは彼らを「自由にしている」からと。

Q. でもあなたはヒトラーが東部戦線の侵略を決定したと知っていましたよね?

A. 私はほんの子どもだったから、起こっていることの多くの詳細を知らなかった。でも歴史の教科書には、ドイツはかつてロシアのいくつかの部分を所有していて、そこはヒトラーが今攻撃している場所だと書いてあった。「Heim ins Reich」ヒトラーがよく言っていた言葉よ。意味は「帰郷せよ」、あるいはその領土を再びドイツのものとするということ。



Q. 終戦直後、たくさんの乗り越えなければいけないものの後に連合国側の統治下におかれて、どう感じましたか?

A. 連合国によって解放されたとき、とてもたくさんのアフリカ系アメリカ人の兵士たちが私たちを自由にするためにやってきた。私はそれまで1936年のオリンピックで金メダルをとったジェシー・オーエンス以外の黒人を一度も見たことがなかったの。私たちは彼らに怯えたわ。彼らがガムを噛んでいたことにさえ——それまでチューインガムを見たことがなかったのよ。彼らが支配している間、彼らは夜に「Freuleins」——未婚女性——を要求した。一緒に酒を飲んで、恋人を作ったの。うちの母はよく私を家のベビーベッドに隠したものよ。彼らに見つからないように。アメリカ人たちがドアをノックしたら、母はこう言っていた。「しーっ、赤ちゃんが寝てるのよ」彼らは礼儀正しかった。
でもロシア人がやってきたとき、彼らは若い女性たちをレイプするために家に乱入してきた。母が私をベビーベッドに隠れさせる時間は無くて、一度捕まってしまった。翌日、母は私たちをロシアの地区からベルリンのアメリカの地区へと(費用のために)連れ出してくれる人を見つけ出した。おかげでロシア人兵士たちから逃れられたの。

Q. 1945年にフランクフルトへ侵攻したイギリス軍かアメリカ軍と個人的な触れ合いがありました?

A. 私はクラシックダンサーで、その頃私たちはアメリカの兵士たちのためによくパフォーマンスをしていた。その後兵士たちの一人にディナーに誘われることを期待していたの。私たちはまだ食料に窮していたから。実はそれが夫との出会いよ!

Q. お父さんは戦争から帰ってきましたか?

A. ありがたいことに、Yesよ。戦時中は年に1度、休暇の数週間でよく会っていたわ。兵士たちの一部は休暇が終わる前に最前線に戻ることを志願したものよ。少なくとも、最前線で彼らは銃を持ってるから。防空壕に座ってサイレンが止むのを待っている代わりに。
戦争が終結したとき、父は5年間捕虜になっていた。でも最終的に帰ってきたわ。

Q. 戦後家族はなにをしましたか?

A. 父が帰還して1年後(父はたったの60kgしかなかった)、私と夫はドイツで結婚した。当時アメリカ人と結婚するとすぐにドイツを去らなければならなかった。私は一人っ子だったから、夫は私の両親の近くにいることを望んだ。彼は両親が私を恋しがることを知っていたから。だから夫はドイツから飛行機で2時間しかかからないトルコで職を得たの。

Q. 今アメリカに住んでいて、ドイツを恋しく思わせるものはなんですか?

A. 他の国々との近さが恋しいわ。ドイツでは2時間ドライブすればイタリアに着く。1時間ドライブすればフランスに着く…… とても短い時間ですごくたくさんの文化を経験できる。それが最も恋しいものよ。 

Q. 僕はドイツ人です。フロリダ、ルイジアナ、アラバマ、ミシシッピにかつて住んでいました。そこではとてもたくさんのアメリカ人がナチスや第二次世界大戦のアイテムを集めていました。ドイツ市民よりも関心が強かったように思えました(それに彼らは高値をつけたがりました)。何かご説明できますか?

A. ハロー!ドイツの人々はあの大戦を思い出したがらないの。例えば、私の従兄弟は戦前の大きな古時計を収集していたのだけど、戦後彼は冬に薪にするためにそれをバラバラに壊してしまった。後になるまで、人々がそういうグッズに大金を払うことに気づけなかったのよ。
ベルリンの壁が崩壊したとき、ドイツ人は壁の欠片を保存しなかった。でもアメリカや他の国から来た観光客から「壁の欠片はどこですか?」と頻繁に尋ねられたの。それでドイツは壁の欠片を再建して観光客が見られるようにしたのよ。
1970年代、まだドイツに住んでいた頃、義理の妹が訪ねてきたわ。私は彼女に「何が見たい?」と尋ねた。すると彼女は言った。「爆撃された家」 びっくりしたわ!もちろん爆撃された家々の全てはもう無くなっていて、既に再建されていたから。

Q. 戦後、普通の生活への転換はどれぐらい難しいものでしたか?

A. 良い質問ね。とてもゆっくりした転換だったわ。ベルリンのように、たくさんの都市は破壊された。当時またいつか再建できるとは想像できなかった。アメリカからの資金援助によって、とても早く再建できたけれど。でもドイツがアメリカに本当に感謝したことは一度もないし、市民たちにその資金がどこからきたものなのか知らされたことも無いわ。
感情的には、本を出すことが完全にこの転換を乗り越えさせてくれた。私は数十年自分にこう言い聞かせて過ごしてきたの。「忘れなさい、忘れなさい、忘れなさい」でも私の本の著者のコニーが私に言い続けた。「思い出しなさい、思い出しなさい、思い出しなさい」本当に何が起こったかという真実を思い出すことは、結局は私に何が起こったのか理解する手助けとなったわ。

Q. あなたの全ての経験から言って、僕らにシェアできる最も傑出した知恵はなんですか?

A. 本のタイトル——『Nothing is as bad as the second world war』(第二次世界大戦ほど酷いことはない) 私は息子たちが何かに不平を言う度にいつもそれを口にしていた。友人たちや知り合いにすらこれを言っているの。彼らは不満を言った直後に私を見て、「はいはい、第二次世界大戦ほど酷いことはない、でしょ……」って続けるのよ。 



(OP)
今日はここまで!全ての質問に感謝してるわ。
このAMAがみんなにとって、あの洗脳が私たちにしたことをより理解する助けになればと願ってる。例えとても理解が難しいものだとしても。
(スコットより:もっと質問があれば気軽に僕にメッセージを送って。確実にVeraに届けるよ! 

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以前もナチス政権下のドイツ市民だった別の女性のAMA(当時0~9歳)を翻訳しましたが、当時の年齢が異なるのでまた違った体験談で、興味深いと思い取り上げてみました。

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