「Q. 足を失ったとき意識はあった?」「A. 振り返って、自分の足がズタズタのステーキ肉みたいになってるのを見た」—— 今回は2010年1月12日に起きたハイチ地震で足を失ってしまった女性が、アスリートとして世界の頂点を目指す現在までの軌跡を語るAMAです。

元スレ:(2014/08/28)
Q. どうしてハイチにいたんだい?
A. 兄と一緒に大人たちに文字の読み書きを教えるプロジェクトで働いてた。ほとんどはただ地域のグループや人々について学ぼうとしてた。実際に物事を整えるため白馬に乗って乗り込む前に、どうやったら助けになれるかを理解しようとしていたの。だから私たちは学ぶためにそこにいた。
Q. どうやって足を失ったんだ?
A. 地震が起きたとき、私はハイチのDarbonneにある家で兄のジュリアンと、ハイチ人の友人たち3人と一緒に座ってた。私たちが階段を駆け下りている間にその家は倒壊して、屋根が崩落した。それで私の右足が屋根とコンクリートの階段の間に挟まった。幸運にも、兄と友人たちはそれほど重傷を負っていなかった。1人は回復に長い時間がかかった脳震とうを起こしていて、兄は足の指を2、3本折ったけど。
地震の間一緒にいた男性が無事で、彼の妻と2人の子どもが怪我しなかったことを本当に本当に嬉しく思ってる。
Q. 足を失ったとき意識はあった?そのときの君のリアクションは?
A. 意識はあった。私を掘り出そうとしている兄と友人たちを振り返って、自分の足がズタズタのステーキ肉みたいになってるのを見た(感じる前に)。
その後あまり間を置かずに私はこう言った。「まぁいいや。まずは生き延びる。足の心配はその次」
Q. 足が挟まってる間の痛みはどれぐらいあった?
A. 脳の働きはかなりクレイジーね。私の足は屋根が崩落したときに折れたに違いないんだけど、なにが起きたのかわからなかった。45分かそれ以上経った後で友人たちが私を掘り出して、振り返って足の怪我を見るまで。その間私は怯えていたけど、正直痛みはなにも感じなかった。たぶんアドレナリンのせい。
一度掘り出された後は、動かされるとすごく痛かった。骨がもう繋がってなかったせいで、足がぶらぶら動き回ってた。痛み止めは30時間後にマイアミに着くまでなにも与えられなかったし、かなり堪え難い時間だった。私にできる最高のテクニックは、痛み以外のものに精神を集中させることだったの。思いつくものはなんでも話し続けてたから、マイアミに至るまでに会ったたくさんの人たちは私の様子に驚いてた。
Q. もう一度クライミングをやろうっていうモチベーションが湧いてくるまでどれぐらいの時間がかかった?
A. うーーーんと……5分?かな?;)
私がまだ半分家の下に埋まっていた時、私は「足が無くてもオリンピックで走ろうとしている男性」に心当たりがあった。オスカー・ピストリウス。もし彼が自分がオリンピックで走れると思うなら、私だって絶対クライミングができるって思ったの。
またクライミングできるようになるまでどれぐらいかかるか分からなかったし、どれぐらい難しいかも分からなかった。でも私は「何か」ができるってことを知っていたの。
Q. 片足で動くのに慣れるまでどれぐらいかかった?運動できるレベルになるまでは?
A. 松葉杖無しで歩けるようになるまで約6ヶ月。かなり上手く歩けるようになるまで1年以内。退院の数日後にジムでクライミングを始めた。外でアイスクライミングにしたのは地震から2ヶ月後。
Q. 君、「I Survived...」っていうテレビ番組に出てなかった?
A. えぇ、出演した。でもあの番組のプロデューサーたちには感情を傷付けられたの。だからずっと自分の出演を見る勇気が出なかった。問題なかったことを願ってる。
└・なにがあったの?
└(OP) 他のマスコミに対応してきた経験と同じ感じ。彼らは私の家にも、両親にも、友人たちにも、学校にいる私にまでも電話してきた。とてもたくさんの人にあの番組から電話がかかってきたと言われた。それで話をしなければと感じたの。私をスタジオに呼ぶまで、まるで彼らは私の大親友みたいだった。番組出演は気詰まりだったけど、番組からはハイチの再建へ注目を引き続けるには本当に良いチャンスになるだろうって言われたの。それはとても重要なことだと私も思った。
だけどその後、一度私が撮影のためにロサンゼルスに着いた途端、彼らは私に長い回復プロセスや、従事している学校再建のための資金を募る活動について話させようとしなかった。全てが番組プロデューサーたちの筋書き通りに作られたの。私はただ不愉快にさせられて、センセーショナルに取り上げられただけだった。
Q. 足を失った後も君に前進を続けさせていたのはなに?
A. 私にとって、前に進み続けることが本当に困難だと感じたことは一度も無かった。それに、しばらくたったら慣れた。
地震直後の数時間、私はそれまで自分が持っていた全てのものが——周りからのたくさんの助けも、ただ生きていることも——奪い去られようとしていることに気づいていた。明らかに、生きていることのほうがそうじゃないことより良いわ。アメリカに到着して一度体の状態が安定すると、自分ができないことを心配しすぎたり足を失ったことの悲しみにくれたりするよりも、自分ができるものやこの経験のポジティブな面に集中することのほうがはるかに簡単に思えた。それにアメリカ市民でいられて、そのおかげで質の高い医療を受けられて、すごく幸運だとも感じていた。それができないとても多くの人々がハイチにいることを知っていたから。
Q. 君は足を失って以降本当にたくさんのことをしてきたよね。今人生に置けるモチベーションを前よりも感じてる?「人生の真価に気づいた」っていうより、「あなたたち私がそれをできないと思ってるでしょ?じゃぁ見てなさい!」って感じ?僕が2本の足を持っていてもできない素晴らしいことをやり遂げることで人々が間違っていることを証明してるように感じてる?
A. そうね、私は二通りに感じてる。片方は、「見せてやる」って観点。私がやってることの一部に明らかに影響してる。もう片方はあの地震の間、世界のほとんどの人たちと比べて、自分がどれだけ特権的であるか本当に分かったこと。それにある意味ハイチの四肢を失った人たちのロールモデルでいたかった。もし世界最高の医療を受けた私が何にも挑戦をしなかったら、彼らのなにかに挑戦する勇気も削いでしまうだろうと心配だったの。

OPのパラクライミング世界選手権の結果を調べてみたら……義足部門で金メダル取ってました!
ちなみに同大会の男子視覚障害部門では日本人が全階級制覇を成し遂げたそうです。
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photo credit: girl/afraid via photopin cc
元スレ:(2014/08/28)
(OP)
略歴:
私の名前はクリスタ・ブレルスフォード。 12歳の頃からクライミングをやってる。右足は2010年6月12日にハイチ地震で失った。
過去四年半のうちに、結婚して、ハーフマラソンを走り、サスティナビリティ学の博士号を取り、子どもを1人産んだ。9月にはスペインのヒホンで開催されるクライミング世界選手権にアメリカ代表として出場する予定。
この大会は私が今もできることを世の中に喧伝するためのチャンス。それと同時に、ハイチで友人たちとした約束を全うするためのチャンスでもある。私は教育を通じてハイチを変えられるように、ハイチの人たちを支援する非営利団体Haiti Partnersの活動資金を募っている。ハイチの子どもたちに、私が自分の子どもに持って欲しいと思っているのと同じクオリティの教育機会を与えるために。
証明: http://www.today.com/id/34876138/ns/today-today_news/t/she-lost-leg-haiti-shes-glad-be-alive/
Q. どうしてハイチにいたんだい?
A. 兄と一緒に大人たちに文字の読み書きを教えるプロジェクトで働いてた。ほとんどはただ地域のグループや人々について学ぼうとしてた。実際に物事を整えるため白馬に乗って乗り込む前に、どうやったら助けになれるかを理解しようとしていたの。だから私たちは学ぶためにそこにいた。
Q. どうやって足を失ったんだ?
A. 地震が起きたとき、私はハイチのDarbonneにある家で兄のジュリアンと、ハイチ人の友人たち3人と一緒に座ってた。私たちが階段を駆け下りている間にその家は倒壊して、屋根が崩落した。それで私の右足が屋根とコンクリートの階段の間に挟まった。幸運にも、兄と友人たちはそれほど重傷を負っていなかった。1人は回復に長い時間がかかった脳震とうを起こしていて、兄は足の指を2、3本折ったけど。
地震の間一緒にいた男性が無事で、彼の妻と2人の子どもが怪我しなかったことを本当に本当に嬉しく思ってる。
Q. 足を失ったとき意識はあった?そのときの君のリアクションは?
A. 意識はあった。私を掘り出そうとしている兄と友人たちを振り返って、自分の足がズタズタのステーキ肉みたいになってるのを見た(感じる前に)。
その後あまり間を置かずに私はこう言った。「まぁいいや。まずは生き延びる。足の心配はその次」
Q. 足が挟まってる間の痛みはどれぐらいあった?
A. 脳の働きはかなりクレイジーね。私の足は屋根が崩落したときに折れたに違いないんだけど、なにが起きたのかわからなかった。45分かそれ以上経った後で友人たちが私を掘り出して、振り返って足の怪我を見るまで。その間私は怯えていたけど、正直痛みはなにも感じなかった。たぶんアドレナリンのせい。
一度掘り出された後は、動かされるとすごく痛かった。骨がもう繋がってなかったせいで、足がぶらぶら動き回ってた。痛み止めは30時間後にマイアミに着くまでなにも与えられなかったし、かなり堪え難い時間だった。私にできる最高のテクニックは、痛み以外のものに精神を集中させることだったの。思いつくものはなんでも話し続けてたから、マイアミに至るまでに会ったたくさんの人たちは私の様子に驚いてた。
関連記事:【もう慣れた】400回以上骨折してるけど、なんか質問ある?【骨形成不全症】
Q. 怪我からの回復とリハビリはどんな感じだった?
A. 回復とリハビリには思っていたより長くかかった。数週間だと予想していたのに。足を失ったことと20ポンド(約10kg)体重が減ったことを除いてはかなり普通の健康状態だったし。
最初の義肢は地震の約2ヶ月後に手に入れた(それにその数日後にアイスクライミングに行った)。全荷重の義肢は6月ぐらいに手に入れた。それでついに松葉杖無しで歩けるようになった。それから1年ぐらいして、自分の体力と持久力がほとんど正常な状態に近くなっていると感じた。最近では私のトレーニングの多くは右腿と臀部の筋力アップを目的としてる。右側を慎重に扱わなければいけないことと、健常者と同じだけの動きの幅を持っていないっていう事実を埋め合わせるために。
Q. 足を失う前にプロのスポーツ競技について考えたことある?もしそうなら、それはパラクライミングだった?
A. クライミング競技はやったことがあったけど、プロではなくて大学生として。あの地震のほんの少し前に、肩を酷使しすぎて起きた故障を直すための手術を受けなきゃいけなかったの。だからそれが治るまではクライミングは休止するつもりだった。手術後の肩でどれぐらいクライミングが可能になるかわからなかったし。物理療法コースが終わった直後にあの地震が起きたから、病院から解放されて数日以内にクライミングに戻れる状態になってた。
パラクライミングはかなり新しいスポーツで、それが必要になるまで存在すら知らなかったわ。でも私はずっとロッククライマーだったし、 なんとかしてクライミングを続けることになんの疑問も抱かなかった。
A. 回復とリハビリには思っていたより長くかかった。数週間だと予想していたのに。足を失ったことと20ポンド(約10kg)体重が減ったことを除いてはかなり普通の健康状態だったし。
最初の義肢は地震の約2ヶ月後に手に入れた(それにその数日後にアイスクライミングに行った)。全荷重の義肢は6月ぐらいに手に入れた。それでついに松葉杖無しで歩けるようになった。それから1年ぐらいして、自分の体力と持久力がほとんど正常な状態に近くなっていると感じた。最近では私のトレーニングの多くは右腿と臀部の筋力アップを目的としてる。右側を慎重に扱わなければいけないことと、健常者と同じだけの動きの幅を持っていないっていう事実を埋め合わせるために。
Q. 足を失う前にプロのスポーツ競技について考えたことある?もしそうなら、それはパラクライミングだった?
A. クライミング競技はやったことがあったけど、プロではなくて大学生として。あの地震のほんの少し前に、肩を酷使しすぎて起きた故障を直すための手術を受けなきゃいけなかったの。だからそれが治るまではクライミングは休止するつもりだった。手術後の肩でどれぐらいクライミングが可能になるかわからなかったし。物理療法コースが終わった直後にあの地震が起きたから、病院から解放されて数日以内にクライミングに戻れる状態になってた。
パラクライミングはかなり新しいスポーツで、それが必要になるまで存在すら知らなかったわ。でも私はずっとロッククライマーだったし、 なんとかしてクライミングを続けることになんの疑問も抱かなかった。
Q. もう一度クライミングをやろうっていうモチベーションが湧いてくるまでどれぐらいの時間がかかった?
A. うーーーんと……5分?かな?;)
私がまだ半分家の下に埋まっていた時、私は「足が無くてもオリンピックで走ろうとしている男性」に心当たりがあった。オスカー・ピストリウス。もし彼が自分がオリンピックで走れると思うなら、私だって絶対クライミングができるって思ったの。
またクライミングできるようになるまでどれぐらいかかるか分からなかったし、どれぐらい難しいかも分からなかった。でも私は「何か」ができるってことを知っていたの。
オスカー・レオナルド・カール・ピストリウス(Oscar Leonard Carl Pistorius、1986年11月22日 - )は、南アフリカ共和国のパラリンピック・オリンピック陸上選手。南アフリカ・オリンピック委員会は2012年7月4日、ロンドンオリンピック陸上男子400mおよび男子4x400mリレーのメンバーにピストリウスを選出。両脚が義足の陸上競技選手では初めて、オリンピックへの出場を果たした。
Q. 片足で動くのに慣れるまでどれぐらいかかった?運動できるレベルになるまでは?
A. 松葉杖無しで歩けるようになるまで約6ヶ月。かなり上手く歩けるようになるまで1年以内。退院の数日後にジムでクライミングを始めた。外でアイスクライミングにしたのは地震から2ヶ月後。
Q. ファントムペイン(幻肢痛)に苦しんでる?
A. はじめの頃はたしかにファントムペインを感じてた。でも一度歩き始めて、ファントムペインに対処するメンタルテクニックをいくつか学んだら、その後それが私を悩ませることは無くなったわ。
Q. 義足ってどんな感じ?
A. 義足で歩くのはダウンヒルスキーブーツを片足だけ履いて歩くようなもの。もしあなたがそれを試したことがあるならね。足首が固定されているから、活動レベルや可動性に最も大きな影響がある。義足は全て平らな水平面を歩くためにデザインされてるから、そういう環境ではほんとうに上手く機能する。でも急斜面や、砂地みたいな柔らかい地面、段差のある地面はそうはいかない。だからクライミング自体よりも登山道のほうが困難なことがよくあるわ。
幻肢痛(げんしつう、英: Phantom Pain)は、怪我や病気によって四肢を切断した患者の多くが体験する、難治性の疼痛。あるはずもない手や足が痛む症状。例えば足を切断したにもかかわらず、つま先に痛みを感じるといった状態を指す。あるはずのない手の先端があるように感じる、すなわち幻肢の派生症状である。ファントムペイン、ファントムリムともいう。
A. はじめの頃はたしかにファントムペインを感じてた。でも一度歩き始めて、ファントムペインに対処するメンタルテクニックをいくつか学んだら、その後それが私を悩ませることは無くなったわ。
Q. 義足ってどんな感じ?
A. 義足で歩くのはダウンヒルスキーブーツを片足だけ履いて歩くようなもの。もしあなたがそれを試したことがあるならね。足首が固定されているから、活動レベルや可動性に最も大きな影響がある。義足は全て平らな水平面を歩くためにデザインされてるから、そういう環境ではほんとうに上手く機能する。でも急斜面や、砂地みたいな柔らかい地面、段差のある地面はそうはいかない。だからクライミング自体よりも登山道のほうが困難なことがよくあるわ。
Q. 君、「I Survived...」っていうテレビ番組に出てなかった?
A. えぇ、出演した。でもあの番組のプロデューサーたちには感情を傷付けられたの。だからずっと自分の出演を見る勇気が出なかった。問題なかったことを願ってる。
└・なにがあったの?
└(OP) 他のマスコミに対応してきた経験と同じ感じ。彼らは私の家にも、両親にも、友人たちにも、学校にいる私にまでも電話してきた。とてもたくさんの人にあの番組から電話がかかってきたと言われた。それで話をしなければと感じたの。私をスタジオに呼ぶまで、まるで彼らは私の大親友みたいだった。番組出演は気詰まりだったけど、番組からはハイチの再建へ注目を引き続けるには本当に良いチャンスになるだろうって言われたの。それはとても重要なことだと私も思った。
だけどその後、一度私が撮影のためにロサンゼルスに着いた途端、彼らは私に長い回復プロセスや、従事している学校再建のための資金を募る活動について話させようとしなかった。全てが番組プロデューサーたちの筋書き通りに作られたの。私はただ不愉快にさせられて、センセーショナルに取り上げられただけだった。
Q. 足を失った後も君に前進を続けさせていたのはなに?
A. 私にとって、前に進み続けることが本当に困難だと感じたことは一度も無かった。それに、しばらくたったら慣れた。
地震直後の数時間、私はそれまで自分が持っていた全てのものが——周りからのたくさんの助けも、ただ生きていることも——奪い去られようとしていることに気づいていた。明らかに、生きていることのほうがそうじゃないことより良いわ。アメリカに到着して一度体の状態が安定すると、自分ができないことを心配しすぎたり足を失ったことの悲しみにくれたりするよりも、自分ができるものやこの経験のポジティブな面に集中することのほうがはるかに簡単に思えた。それにアメリカ市民でいられて、そのおかげで質の高い医療を受けられて、すごく幸運だとも感じていた。それができないとても多くの人々がハイチにいることを知っていたから。
Q. 君は足を失って以降本当にたくさんのことをしてきたよね。今人生に置けるモチベーションを前よりも感じてる?「人生の真価に気づいた」っていうより、「あなたたち私がそれをできないと思ってるでしょ?じゃぁ見てなさい!」って感じ?僕が2本の足を持っていてもできない素晴らしいことをやり遂げることで人々が間違っていることを証明してるように感じてる?
A. そうね、私は二通りに感じてる。片方は、「見せてやる」って観点。私がやってることの一部に明らかに影響してる。もう片方はあの地震の間、世界のほとんどの人たちと比べて、自分がどれだけ特権的であるか本当に分かったこと。それにある意味ハイチの四肢を失った人たちのロールモデルでいたかった。もし世界最高の医療を受けた私が何にも挑戦をしなかったら、彼らのなにかに挑戦する勇気も削いでしまうだろうと心配だったの。
Q. ハイ!あなたがサスティナビリティ学の博士号をもっていることに気づいたんだけど、それについて話してくれる?ハイチの人たちのための仕事にどう関係してる?なにか関連性はある?
A. 博士号を取ったのはほんの数ヶ月前。だから今年の夏は忙しかった。私の大学での研究はハイチで私がやってることに直接関係してはいないけど、どちらも同じ考えによって動かされてる。
私の人生最大の目標は、世界で良いことをするために思慮すること。 支援の方法を学ぶためにハイチに行って、同じ理由でサスティナビリティ学を調査研究した。
私の学位論文はネバダ州ラスベガスの水源にフォーカスを当てたものだった。 都市で使用する水について水質管理者たちが良い決定をできるよう支援する方法を理解しようとしたの。今はこのプロジェクトに従事してる:http://www.santafe.edu/news/item/gates-slums-announce/
A. 博士号を取ったのはほんの数ヶ月前。だから今年の夏は忙しかった。私の大学での研究はハイチで私がやってることに直接関係してはいないけど、どちらも同じ考えによって動かされてる。
私の人生最大の目標は、世界で良いことをするために思慮すること。 支援の方法を学ぶためにハイチに行って、同じ理由でサスティナビリティ学を調査研究した。
私の学位論文はネバダ州ラスベガスの水源にフォーカスを当てたものだった。 都市で使用する水について水質管理者たちが良い決定をできるよう支援する方法を理解しようとしたの。今はこのプロジェクトに従事してる:http://www.santafe.edu/news/item/gates-slums-announce/
サステイナビリティ学(英: Sustainability science)とは、地球温暖化や大量生産などによる地球規模の喫緊の問題を解決すべく、持続可能な地球社会へ向けて地球持続ビジョンを構築するための基礎として提唱されている超学的な学術。研究対象としては、地球システム、社会システム、人間システムに注目し、その三つのシステム間の相互作用を主要な研究対象とする。
Q. 地震後ハイチに戻った?
A. 一度ね。あの地震から約10ヶ月後に、新しく再建された学校の落成式に参加するために。あのじしんの後、私は様々な注目を浴びた。それで私たちはそれを利用してコミュニティのために役立つなにかをしたかった。もし画像の投稿方法が分かるなら、あなたたちに学校のビフォー・アフターを見せるんだけど。
└(OP) これが私たちが従事した学校の落成式についてのブログ記事:
http://haitipartners.org/2010/11/giving-thanks-inaugural-ceremony-at-cabois-school/
今の時点で、私はアメリカにいて資金集めともっと多くのサービスの要求を続けることが、ハイチの友人たちや同僚たちのために私にできる一番のことだと思ってる。
A. 一度ね。あの地震から約10ヶ月後に、新しく再建された学校の落成式に参加するために。あのじしんの後、私は様々な注目を浴びた。それで私たちはそれを利用してコミュニティのために役立つなにかをしたかった。もし画像の投稿方法が分かるなら、あなたたちに学校のビフォー・アフターを見せるんだけど。
└(OP) これが私たちが従事した学校の落成式についてのブログ記事:
http://haitipartners.org/2010/11/giving-thanks-inaugural-ceremony-at-cabois-school/
今の時点で、私はアメリカにいて資金集めともっと多くのサービスの要求を続けることが、ハイチの友人たちや同僚たちのために私にできる一番のことだと思ってる。
本当に本当に良い先生たちや教育者たちがハイチにいるし、私が——例えば誰かに何かを教えるとか——するよりも、彼らの重要な仕事のために財源を確保することのほうが私にできるより良いことだから。
Q. ハイチに旅したことを後悔してるかい?
A. 全然。もちろん今も足が二本あったらと思うし、もし幹細胞で足を再生する方法を誰かが見つけてくれたら順番待ちの先頭に並ぶと思う。
でも私の生活と全く違う生活をしている人々から学ぶため、教育を受けるためにハイチへ行った。どうしても予測不可能な恐ろしいことが起こったとき、たまたま良くない場所にいたということ……まぁいいや、私に事態を変える選択肢はなかった。だから私を今いる場所へと導いた自分の選択になんの後悔もしてない。それに人々がどんなに親切かってことに驚かされ続けてる。地震後の数時間も、長い回復プロセスの間も。
おかげで人々に対して前よりはるかに楽観的になったわ。
Q. 四肢のひとつを失った人たちは、通常、事故以前と同じレベルの幸福度に戻ることができるってなにかで読んだことがある。君にとってそれは真実?
A. 明らかに私はそのケース!
つまり、依然として今も足が2本あったらいいのにと思ってるし、これからもそう思うだろうと思う。でも足があったときより少しでも不幸だとは思わない。宝くじの当選者と外傷性障害に苦しむ人の幸福度は、どちらも通常数年以内に同じベースラインに戻るっていういくつかの研究を読んだことある。私の経験上、それは真実だと思う。
Q. ハイチに旅したことを後悔してるかい?
A. 全然。もちろん今も足が二本あったらと思うし、もし幹細胞で足を再生する方法を誰かが見つけてくれたら順番待ちの先頭に並ぶと思う。
でも私の生活と全く違う生活をしている人々から学ぶため、教育を受けるためにハイチへ行った。どうしても予測不可能な恐ろしいことが起こったとき、たまたま良くない場所にいたということ……まぁいいや、私に事態を変える選択肢はなかった。だから私を今いる場所へと導いた自分の選択になんの後悔もしてない。それに人々がどんなに親切かってことに驚かされ続けてる。地震後の数時間も、長い回復プロセスの間も。
おかげで人々に対して前よりはるかに楽観的になったわ。
Q. 四肢のひとつを失った人たちは、通常、事故以前と同じレベルの幸福度に戻ることができるってなにかで読んだことがある。君にとってそれは真実?
A. 明らかに私はそのケース!
つまり、依然として今も足が2本あったらいいのにと思ってるし、これからもそう思うだろうと思う。でも足があったときより少しでも不幸だとは思わない。宝くじの当選者と外傷性障害に苦しむ人の幸福度は、どちらも通常数年以内に同じベースラインに戻るっていういくつかの研究を読んだことある。私の経験上、それは真実だと思う。
関連記事:【画像多数】機械の腕を持つ女の子だけど、なんか質問ある?【バイオニック・アーム】

OPのパラクライミング世界選手権の結果を調べてみたら……義足部門で金メダル取ってました!
ちなみに同大会の男子視覚障害部門では日本人が全階級制覇を成し遂げたそうです。
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